2月3日
ここ 1 週間ほど考えていたこと
Foie gras を使ったお弁当が発売中止に追い込まれた。児童養護施設を舞台にした TV drama が放映の危ぶまれる状況になった。
日本人はもっと声をあげなければいけない,とずっと考えてきた。もっと社会に対して自分の意見を発信することができる人間が増えればいいな,と考えていた。Internet はそのための魅力的な手段に思えた。Internet を使えば,情報の伝達は加速し,集積も進み,発達した議論が展開できる,と考えていた。
どこで道を誤ったのだろうか。
この国の人たちは声をあげることに快感をおぼえているようだ。声をあげて誰かを叩くことに快感をおぼえているようだ。叩きやすい標的を見つけたら,だから,一斉に我先にと叩く。その結果なにが起きるかについてはどうでもいいようだ。
声をあげることは重要だった。嫌煙者が不当に健康被害を被ることは無くなった。そこまでは良いのだけれど,その後に弱くなった喫煙者を一斉に叩き始めるようなことはよくない。そういう話なのだけれど。
Foie gras は食べない,というのにとどまらず,「売ってるのが気に入らないから売るな」という話をしてしまった。TV program を見ない,というのにとどまらず,「いじめにつながる気がするからやめろ」という話をしてしまった。
他人を殴っているつもりらしい。実際に殴られているのは自分自身だということを分かっていないらしい。
そうやって他人の権利……とまで難しいことではなく,他人の選択肢,行動の自由を奪うことは,つまり,自分の行動の自由を奪われる余地を与えているのと同じことなのだけれど。
Foie gras は残酷な食べ物だ,という主張から,肉は残酷な食べ物だ,という主張への距離は,それほど遠くないように見える。それだけでなく,むしろ本質的な問題は,声を上げれば他人の行動を思い通りに制限できるという認識が一般化することである。
声をあげる,というのは,意見を述べる,ということのはずだったけれども,そうではなくなってしまったようだ。圧力をかけて行動の自由を奪う,ということになってしまったようだ。
不寛容は全体主義的である。
どこで道を誤ったのだろう,という僕の疑問に対して,宇野常寛さん(この人は批評家で,つまり「なんか面白いことを言うのを仕事にしている人」だ。だから面白いことを言う。)が「Twitter だと思う」と答えてくれた。
なるほどなぁ。
Twitter は 140 字以内の短文を投稿するところだ。140字というのは,英語にしてみれば非常に短すぎる。140字には,1つか2つの主張のみしか入らない。(というのは日本語では50字だが,英語にすると " When we use English, 140 letters are very short; it is so short that nothing but claiming this fact can be done in one tweet." と130字近くになる。)しかし日本語にとって140字は広大だ。17文字で情景を表し,31文字で言いたいことを述べる言語なので,140字の中で自分の主張を展開することができる。
その結果,日本の「長文投稿」文化を滅ぼしてしまった。
とりあえず言いたいことを投げるにはちょうどいい。でも140字なので,緻密な論理を汲み上げることはできない。自分の主張を端的に述べることしかできない。
「相手の主張を聞いて理解して,それに対する自分の意見を言う」というのも困難である。相手と主張をすりあわせて本格的に議論するには枠が足りない。
そもそも「どうでもいいことを言う」ための web service だった。僕もどうでもいいことしか言わないようにしている。140字ではどうでもいいことしか言えないだろ,という魂胆だった。
しかし,日本語では同じ文字数で「とりあえず自分の主張を述べる」ことができてしまった。だから,言いたいことを言う道具として使われるようになった。そのような使われ方が,日本語 Internet 圏における一つの情報発信の様式になってしまった。
かつて日記に書いたかもしれないが,日本には「茶の間で TV の報道番組に向かってあれこれ愚痴る」という文化がある。TV に向かってなら,言いたいことを言える。夫か妻が「はいはい」とうなずいてくれる。そしてそれによって,発信したぞ感,自分が存在している感を満足させるのだった。とても愚かだ,とは思うけれども,
それ以上のことをするような気力も能力も無いのだろう。
それが Twitter によって代替された。
Twitter 検索で To:47news や To:asahi を見てみると良い。News 配信用の bot account に対して "@ reply" で自分の主張を述べている人がたくさんいる。もちろん,@47news というのは bot account であり,"@ reply" を送っても中の人が見ているわけではない。何がしたいのだろうか。誰かが読んでいるとでも思っているのだろうか。愚かな話だ。
Twitter によって,相手の意見を聞かずに自分の主張を非論理的に述べる,というのが日本語 Internet での言論の型になってしまった。
その結果,『自分の主張を非論理的に述べる』ことができれば言論の場に参加できるということになってしまった。
自分の主張を非論理的に述べるというのは,言論を行う上での最低限度の skill である。その上にある,論理的に述べる・相手の意見を聞く・意見をすりあわせる,などが出来ない人間も,「言論」できるようになった。もっと言えば,それらの skill を養おうとする意欲を人々は失ってしまった。
その結果,非論理的な言論が加速する。
憲法の性格をどう考えるか。
という質問に対して,首相が国家権力を縛るものだという考え方があるが,それはかつて王権が絶対権力を持っていた時代の主流的考え方だ。
と述べるのも,それと無関係ではないのだろう。もちろん安倍晋三が無知なのは確かなのだけれど,その背後に,国家権力の中に,とても頭の良い人間がいて,今ならばこのような主張が通るだろう,国家の権力を増大させるよい機会だろう,と考えているのだろう。おそらく狙いは米国からの独立なのだろう。あるいは,富国強兵なのかもしれない。いずれにせよ,その道中に中国との戦争が待ち受けていることは既定の事実である。いきなり論理が飛躍したなあ,とお思いでしょうが,その通りです。このあたりは,たぶん僕みたいな外交素人が論理的に考えられる領域ではない。だから僕が論理的に述べることはできない。しかたがないので直観して述べているのです。
2015年中の中国との戦争(ただし実際には戦争ではなく『小規模な武力衝突』と呼ばれると思う)はもう確定したかに思えます。だからもはや,それを踏まえて,その過程でおきる損害をどうやって最小化するか,というところに焦点が移っている。最近僕はそればかり考えている。都知事選でイエイリカズマを応援するのもそのためで,ここいらで若者の声を数字にしておけば,まだ戦時下で若者(ここでは子育てをする年代,あるいは前線兵士となりうる年代として定義するのが妥当)が老人に抑圧されずに済むかな,と考えているからです。
しかし僕は逃げる。最近は exodus のことばかりを考えている。早く逃げないといけない。
遅くとも 2014 年度中には逃げないといけない。
遅くとも 2014 年度中には逃げないといけない。